はじまりと終わりの多忙な一日



上品なものごしに隠れた傲慢な野心。
それを満足させるであろうアメリカの広大な市場。
生まれ備えられた土台だけでは、きっと足りない。


『まぁ、俺に勝てるヤツなんかいねーけど』


自信に満ちた表情で。
今も彼は、マンハッタンのビルの谷間を闊歩していることだろう。















─────気持ちのいい朝だった。
窓を開けると心地よく冷えた風が、ささくれた畳の上を滑ってゆく。
夏の盛りを終えた木々は涼やかな音を立てて揺れていた。

つくしは何やらもぐもぐと夢の余韻を噛み締めている弟の肌掛けを一枚掴むと、


「起きなさい!」


朝の静寂に派手な気合を短く響かせ、勢いよくそれを剥ぎ取った。



記憶が正しければ、学生の本分とは勉強と相場が決まっている。
つくしの場合、そこに主婦と労働が加わるから朝は特に忙しい。
子供のように頼りない父親と、とことん見栄っ張りの母親、姉泣かせの朝寝坊な弟と暮らすゆえ、今となっては悲しい性分といっていいかもしれない。

念入りに化粧を施す時間は当然あるはずもなく、彼女の朝はまず4人分の朝食作りから始まる。
卵焼きとほうれん草のおひたし、豆腐の味噌汁と・・・・。
作り終えた簡単な料理を皿に盛って食卓をひと通り整えると、待ちかねたように皆の箸が一斉にのびる。
そこでようやくひと心地着いて、つくしは左手の書類に目を通した。

大学4年秋のそろそろ卒論準備に頭を切り替えたい時期だが、
現在のところ彼女の最優先事項はいかにしてこの就職戦争を勝ち抜くか、
ほぼ余り組に確定しつつあるつくしには切実な問題であった。


「別にいいじゃん。今時フリーターだって珍しくもないしさ。」


進は時々憎らしいほどのん気だ。
さすがあの両親についてまわっただけのことはある。
どうやら物事深く掘り下げて考える能力は備わらなかったようだ。


「そうはいかないでしょ。卒業したら学費返すって約束でお金借りてるんだし。」


すると呆れ半分で書類を閉じるつくしの横で、


「大丈夫よ。奨学金なんて道明寺様にしたら、大根1本買うぐらいのもんなんだから。
 ケチなこと言わないの。ねぇ!パパ!」


と、安直思考代表のママが、向こうが透けそうに薄いお新香を摘む。
ママの言うとおりだ、と後に続くパパに、つくしは目尻と吊り上げた。

また始まった。
ちょっとお金の話が出ると、すぐに道明寺、道明寺・・・・。

信じられない他力本願。
怒鳴ってやりたいところだが、所詮、馬の耳に念仏。


「自分で借りたお金は自分が働いて返す。勝手に他人をあてにしないでよね。」


苛立ち混じりにつくしが太い溜息をこぼすと同時に、ちゃぶ台の上をせわしなく動いていたママの箸がピタリと止まった。


「他人?」


カッと血走った目を見開いて、


「いい?つくし。プロポーズに時効はないの。あんたは道明寺様の婚約者なのよ!
借金までして進学させたのだって、せこい中小企業に就職させるためなんかじゃないの!
あの鬼ババァが姑になっても、あれこれ文句言わせないために決まってるでしょっ!!」


メチャクチャな理由を大声でまくし立てるから、あぁ、眩暈がしてくる。


「・・・あのねぇ。先のことなんかわからないよ。勝手に決めてかかるのやめてくれる?」


ところが、その牽制もすでに遅かったようで、


「あんまりママをなめてもらっちゃ困るわね。もちろんもしもの時の保険もぬかりないわよ?
最悪・・・・本当は考えたくもないけど、もしも最悪の時は大切な娘を傷つけたんだもの。
いろいろこっちも迷惑したんだから。慰謝料の1億や2億、用意してもらわなくっちゃ。」


ソロバンを弾くママの頬は嬉しそうに緩んでいた。



・・・・・・何が迷惑だってんだか。
都合の悪いことは記憶の引き出しからさっさと捨て去るその鮮やかな手口には、
いつもながら開いた口も塞がらない。


「まあね、いらない心配よ。つくしったら愛されちゃってるし〜!」


ついには鼻歌混じりでほくそ笑むママ。
つくしは飲みかけの味噌汁をふき出した。



この人・・・・ホントのことを知ったら、真面目に死ぬかも・・・・・・・・。


「さ・・・さ〜ぁ。もう行こうかな。」


適当に話を区切って早々に退散することにする。
部屋と出た時にはもう朝の爽快な気分はすっかり萎えていた。











朝一番の会社訪問終えたその足で、この時期あまり顔を出さない大学に寄る。
事務局の用事を済ませ、一つ講義を受けてから、久しぶりの友達と軽い会話を交わし、バイト先へ直行。
仕事は慣れたもので、閉店後のレジの清算をテキパキとこなし、売れ残った商品を所定の位置に片付ける。
店を出たのは夜の9時を過ぎていた。

なんせ今日は本当に疲れた。
足も腰も棒のように固まって、体は石をかついだように重かった。
一刻も早く家に帰って、馴染みの布団に飛び込みたいところだ。

けれど今朝の会話を思うと帰宅の意欲も削がれて、つくしは家出少女の気分を味わいながら、
道脇のガードレールに腰を下ろした。



「はぁ・・・・どうすんだ?あたし・・・。」


連絡が途絶えて随分と経つ。
短く綴られた葉書はおろか、ホントはもう電話さえも鳴らなかった。




街は秋だった。

アスファルトの冷気は全身の疲労を労るように優しく、行き交う人の衣類は一枚増えて、
落ち着いた色あいをとり戻している。
昨日までそこにあったはずの夏の気配は秋の夜風に拭われて、約束の4年は瞬く間に過ぎていった。



季節が移ろうごとに、恋は忙しい日常へと埋もれていくかのようだ。
風化とはこういうことなんだろうと、つくしは漠然と考える。

たぶんこのまま恋が終わっても、あたしはあたしらしく生きていける。
飛躍してゆく彼を誇らしく思える自分になれるだろう。

それも意外と自分には似合いのような気もするから不思議だ。



そんなことをふと思って、
でも身体は正直なもので・・・・。


意思に反してせり上がる涙を、つくしは堪えられそうにもなかった。




「嫌だ、カッコわるい・・・・。」


大人の振りして強がってみせても、
心は日を追うごとに砕けてゆく。

いつも潔くありたいと思うのに、
あたしは彼に貰った土星を捨てれない。

それは今もあたしの胸の上に揺れて、
華やかな光を放っている。



圧倒される強い意志。
水辺に際立つしなやかな骨格。
素肌に燻る高い熱。

瞳も頬も輪郭も、彼を形作る一つ一つが
瞼の裏に焼きついて離れない。



彼がいない世界は苦しくて。
この恋が終わってしまうなんて信じられなくて・・・・。




時間が忘れさせてくれるなんて嘘だ。

もう限界なのだ。








道明寺。












「しけた面してんじゃねーよ。辛気くせーな。」


突然、横から肩を強く掴まれて、不意に意識を引き戻されるつくし。
ほら、つい油断したりするから訳のわからないバカが寄ってくる。


「余計なお世話っ!さっさと行きなさいよっ!」


振り向きざまに肩の手を払いのけると、そこには背の高い男が一人、


「悪い、遅れた」


まるでデートの約束に5分遅れたような軽い調子で片手を掲げたから、
つくしは心肺停止の硬直ぶりで目を見張った。
溢れかけの涙も、引き潮のように瞳の奥へと収まっていく。


「お・・・遅れた・・・?」


こっちはやっと搾り出す声も上擦っているのに、


「ちょっと手間取ってな」


と悪びれる様子もなく、くせの強い前髪を風に靡かせる司。
そしてつくしの胸の土星を見やると、


「すっげー会いたかった!」


飛びかかるような勢いで迫ってくる。
それをつくしはひょいと避けて、バランスを崩した彼の背中にトドメの蹴りを一発。


「触らないでよっ!」


自分には高価すぎて、むやみに首に通すのも勿体無くて。
でも机の奥に置き去りにするには、大切すぎて。
次は胸を飾るその小さな存在に頼りたくなって。

一度泣けば、きっと会いたいと叫んでしまう。
だから喉を焼く苦しさを、日々の忙しさに誤魔化して堪えてきた。


なのにコイツは極上の笑みを弾けさせて、
あたしが叫びたかった言葉を易々と言ってのける。



「あんたみたいな勝手な男、あたしがのんびり待ってると思ってんの?!」


いっそ可愛く泣いて見せればいいのに、それも癪でまだ意地を張るなんて、まったく悪循環だけれど。


「いってぇなっ!てめーこそわかってんのかよっ?!」



怒り心頭のつくしを前に、司は優雅に姿勢を立て直すと、


「俺よりいい男なんか一生待っても現われねぇ。お前よりいい女だって一生探しても見つかんねーよ。」


余裕綽々の風情でサラリと続けた。



「・・・・・ぅっ・・・・・!」



クサイッ!
くさすぎて、恥ずかしい!!

不覚にも、一気に赤面。




「・・・・あ、あんたって・・・・」


本当に、
なんて言うか、まったくもう・・・・

成長してるんだか、してないんだか。


思いっきり疑いの視線を向けてはみるが、


「何だよ?」


司は悪戯っぽく笑うばかり。
つくしもなんだか馬鹿馬鹿しくなって、


「・・・・内緒。」


と、その仏頂面に笑顔を零した。
そこでようやく司は、その意地っ張りな背中を強く強く抱くのだった。




二人の恋は始まったばかりである。







                                  fin