「牧野、これこっちでいい?」
「うん。類の使いやすいほうでいいよ」

重そうにノートパソコンを抱えてうろうろしていた類が、ごとり、とテーブルの上に重そうなそれを置く。

何か彼の周りの空気が変わった気がしてあたしは、視線を類に向けた。
一見、無表情だけど・・・───
────ちがう。瞳が・・・・・・、瞳の色が柔らかく揺れている。

「……なに?今何気に笑わなかった?」
「べつに」



そう言って、さっさとリビングに向かう彼の後姿がかすかに震えてる気がする。





なによ、やっぱり笑ってんじゃない。
ま、いいけどさ。



あたしはまた食器をしまい込む作業に没頭し始める。

『牧野』・・・ねぇ。
いつになったら、あたしは『牧野』から卒業できるのかしら・・・・・・
もしかして、ずっと『牧野』だったりして・・・・・・

まさかねぇ・・・
・・・・・・。
でも類のことだから、笑えないかも・・・・・・












  暖かい日差しの中、花沢のお家の広い庭で楽しそうに遊ぶ親子。
  『パパ〜、次はボール!ボールで遊ぼうよう!』
  『なんだよ、類子は元気だなぁ』
  外見は類にそっくりの娘。でも中身は母親譲りで元気いっぱい。
  外で遊ぶのが何よりも楽しみらしい。
  『・・・ふふ、類に似なくてよかったわ』
  『・・・・・・、ちょっとそれどういう意味なのさ』
  類が、ふてくされてる。
  『別に〜』
  あたしは、幸せすぎて思わず笑みがこぼれる。
  『ねぇ〜、牧野!牧野もボールで一緒に遊ぼうよ!』
  娘が、こちらを見ながら無垢な笑顔でボールを投げてきた。
  『!!』

  『あぁ、そうだな。牧野も一緒にやろうよ』
  『こ、こら、類子!ママって呼びなさい!ママって!』
  『えぇ〜!なんで〜!パパだっていっつも牧野って読んでるじゃん』
  不思議そうに、隣に立っている類を見上げる娘。

  『そうだよ、牧野は牧野だろ?なにがおかしいんだよ』
  『あ、あたしには花沢つくしって名前があるし、類子のママよ!!』
  『でも、元は牧野だろ?』
  『・・・・・・』







 食器を持つ手が思わず震える。
 あ、ありえる。
 想像できるわ・・・・・・。
 あの類のことだもの。
 恐ろしい想像をしている、あたしの耳にぼそぼそとした音が耳に入ってきた。

大きなため息がこぼれる。
あの人にテレビを見るなって言うほうが、無理なんだろうか・・・

せわしなく変わる画面を見つめている類に、いらいらしてくる。
「る〜い〜!!テレビ見る前に自分の分ぐらい自分で片付けてよ!!」

そう怒鳴ると、あたしはイヤな想像を打ち消すために今度はもくもくと食器を洗い始めた。



今日は引越し。
類は大学を卒業して、お父様の会社で勉強中。

類が大学に入学したときに、卒業したら一緒に暮らそう、と言われた。
あたしは素直に類の言葉に従ったわけじゃない。
それに
類と、一緒に暮らすということの意味ぐらいわかってた。
普通のカップルの同棲とは違う。一緒に暮らす=花沢の家に入ること。
婚約や結婚という言葉がついてまわる。

あたしにはまだ、婚約や結婚なんて想像がつかなかった。



それに道明寺があたしのことを忘れたから、
はい次は花沢類ね、なんて絶対に嫌だった。



でも

ただひとつわかっていたことは

今、類と一緒にいたい。


ただそれだけ。

子供じゃないあたしたちには、そうするにはそれなりの形が必要だってわかってる。
とくに類は日本を代表する、大企業の御曹司。

けど、類のご両親はとてもいい人で
「ゆっくり考えていいから」とだけ言ってくれた。

てっきり反対されると思っていたあたしは、面食らったのを覚えてる。
類は相変わらずで「だから言ったでしょ?」なんて言って微笑んだ。


あたしは、類のご両親の言葉を素直に受けとり、時間をもらった。
そして、

類が大学3年のときに婚約をした。




























あたしは、(わかっていたことだけど)すっかりと寝入っている彼の前に立ち、
しばらく寝顔を眺めていた。
この幸せそうな寝顔を見ると、きっとあたしの出した答えは正解だったという
確信に似た思いが胸を満たす。

右手の重みに気づき、ミルクがたっぷりと入ったコーヒーをテーブルに置く。
幸せそうな寝顔に意地悪をしたくなり、少し大きめに声をかける。

「ハイ。お疲れサマ」

もぞり、と類の体が動く。

「お疲れ様って言っても類は、なにしてたのかしら?」

ゆっくりと、ビー玉のような瞳が開かれる。

あ、ちょっと嫌な言い方だったかな?

出会った頃を、思い出させる寝起きの幼い類の表情に思わず戸惑う。
あたしは、類の言葉を待った。

キョトキョトと周りを見回した後「寝てました。ごめんなさい」と類は素直に頭を下げる。
珍しく素直な反応に、あたしは頬が赤くなるのを感じて視線をそらす。


な、なんか調子が狂う・・・・・・


でも口から出るのは嫌味ばかり。
「・・・ったく、自分のものくらい自分で片付けなさいよ、これだから金持ちって・・・・・・

ちがう、こんなこと言いたいんじゃないのに・・・・・・

それでも口から出てくる言葉は止められない。

類は、あたしの言葉をまったく気にしている素振りはなくテーブルのコーヒーに手を伸ばしていた。
そんな類の仕草に少し、ホッとしながらあたしもコーヒーに口をつけた。



ミルク入りコーヒーを手にしたままあたしは、類の隣に腰を下ろす。


「・・・・・・髪、伸びたよね」
類は空いている手で、あたしの髪の毛に触れる。
持ち上げてハラハラと解してみたり、日に透かしてみたりしている。

髪の毛をいじられているあたしは、気持ちよくて思わず目を細める。

類は、ごそごそとあたしの後ろに入り込んだ。
ふわりと、類のヘアームースの香りが鼻腔に漂う。
 
「ま、また、話をごまかす」

後ろを振り返ろうとしたあたしを、突然後ろから抱きしめる類の腕。
突然のことにびっくりして、じたばたと少し暴れてみたが
腕の力を緩めてくれる気配は全然なくて・・・・・・
仕方なく、優しく包んでくれる彼の腕や胸に少しづつ体重をあずける。

類の鼓動が聞こえる。
規則正しくリズムを刻む。

何故だか懐かしくて、切なくて
自分の胸の辺りに回されてる類の腕にそっと触れる。


「『花嫁修業』のほうはどうですか?つくしさん」

腕に触れたことの返事のように突然、類が口を開いた。
肩に顔を乗せ、あたしの顔を覗き込む。

「も、もう〜、類ってばずるいよ。こういう時ばっか名前で呼ぶし〜」
「牧野」と呼ばれることに慣れているあたしは、
こうゆうときどうしていいかわからなくなる。

普段は名前で呼ばないくせに・・・・・・
ふとしたときに、呼ばれる名前。

もっと、呼んで?
もっともっと呼んでほしい。
類の口から、紡がれるあたしの名前が聞きたい。


初めて名前で呼ばれたときのことを今でも覚えている。
あたしたちの関係が進んでいっても、類はあたしのことを「牧野」って呼ぶから。


『つくし、大学卒業したら・・・・・・、一緒に住まない?』

名前を呼ばれたことがうれしくて、会話の内容なんてまったく気にしなくて
(あとから大変だったんだけど・・・・・・)

顔に血液が集中するのが自分でもわかったくらいだもの、
きっとすごい真っ赤になってたと思う。
でも、すごいうれしくて
うれしくて泣きそうだったけど
がんばって、微笑んでみた。



そしたら類もなんだか泣きそうな顔で、微笑んだ。




ゴトリ、というコーヒーカップが置かれる音であたしは、“今”に戻る。

光が遮られてることに気づいて隣を見上げると、類が立ち上がっていた。

             


「さぁて、あと少し片付けちゃおうか。つくし」

ま、またぁ。
もう。
絶対わざとだ。
わざと言ってる。

それでも顔が熱い。 
                           


類はあたしのこんな状況をわかってるのかわかってないのか、
テレビの電源を落とすとキッチンへ向かった。

名前を呼ばれるたびに、こんな風になっていたら身が持たないかもしれない・・・。


類には振り回されてばっかりだ。
でも、類に振り回されている自分も、嫌いじゃない。


あたしも、女の子だったんだ、って気づかされるから─────


そんなことを考えながら、あたしは類の後ろについてキッチンに向かった。




                             おしまい






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