「あ・・・・・」


 牧野サンの小さな声と同時に、周りの空気が動いた。半分涙目の顔を上げると、千切れんばかりにしっぽを振りながら土手を駆け上がっていくマリの姿が見える。名前を呼んでみても振り返ることはなくて。そのうちマリの姿は夕闇に消えた。彼女と触れていた体の一部が、急に冷たくなって。なんだか余計に悲しい気持ちになった。


「・・・ごめんね」


 マリのいなくなった冷たさになれた頃、ほとんど聞こえないほどの呟きが耳に届く。隣に座る牧野サンを見るけれど、彼女は正面をじっと見据えたままで。その顔には、どんな表情が浮かんでる?俺には・・・見えない。


「相談に乗る・・・なんて言っちゃったけど、あたしに話をする草野くん、すごく辛そう。 なんだか無理させちゃったよね・・・」


 おせっかいだったかな?・・・と俺を見るその表情はどこか悲しげだ。どうして君がそんな表情するの?救ってくれるはずの君がそんな顔してたら・・・俺は、一体どうしたらいい?


「無理なんて・・・してないよ?」


 精一杯、笑ってみせた。無理なんてしていない。ただ、この先を言葉にするのが―――牧野サンに聞かせるのが、少し怖かっただけなんだ。本当にそう思っているのに、牧野サンは信じてない様子で、悲しげな表情で俺を見つめて


「・・・帰ったほうがいい?」


 と言った。その瞬間、例えようのない寂しさが胸を襲う。理由なんてわからない。でも、マリが行ってしまったときも急に寂しくなって。今ここで牧野サンまでいなくなったら、俺はこの寂しさと悲しさを、どうすればいい? こんな気持ちになったのは初めてだ。独りが寂しいと思うことや、こんなにも誰かにそばにいて欲しいと思うこと。俺、ちょっとおかしくなっちゃったのかな?宮田に言われたこと、結構堪えてたのかな。それとも、この夕焼けのせいなのかな・・・あまりにも大きくて、あまりにも赤いから。

 そんな事考えてたら、返事をしない俺を肯定と取ったのか、しばらく正面を見つめた後、牧野サンは地面に手をついて、立ち上がろうとした。そんな彼女に気付いて、俺は何をしたと思う?正面に広がる室見川の水面に反射する夕日をじっと見つめながら、牧野サンの左手をぎゅっと握ったんだ。



その手は外気に当たっていたせいかちょっと冷たくて。でも、掴んだところから少しずつ暖かさが伝わって。今まで感じていた寂しさが、嘘のように消えていくのがわかった。ああ、独りじゃないんだな・・・って、妙な安心感が心の中に湧いて、今度は自然と涙が出てきた。

 でも、こんなとこじゃ泣けないだろ?牧野サンにばれないように、必死で鼻すすって我慢したよ。きっと、彼女の手を掴む力も強くなっていたんだと思う。草野くん・・・って、聞こえないくらいの小さな声で呼ばれて、やっと我に返ったよ。繋がった自分たちの手が視界に入って、一瞬思考回路が停止した。急に顔が熱くなっていくのがわかって。次の瞬間には、まるで振り払うかのように牧野サンの手を離した。


「ごごごごご、ごめん・・・俺、何してた?ってか、ほんとにごめん・・・」


ああ、情けない。言ってる言葉は支離滅裂。意味もなく両手をぶんぶんと振って、意味もなく体を左右にひねって。挙動不審って、こういうこというのかな?でも、少し安心した。そんな俺を見て、牧野サンが笑ってくれたから。最初は口元を押さえて控えめに、そのうち我慢できない!って感じで、腹抱えて笑い出した。豪快に笑う彼女に思わずつられて、意味もわからず、俺も笑っちゃったよ。でも、笑って声出したら、宮田にきつく言われたとか、自分のミスで奴のプライドを傷つけたとか、そんなことが小さなことに感じられて。心がすっと軽くなったような気がした。


「もう、俺困っちゃうよね・・・突然手なんか握りだしちゃって。 田村にもよく言われるんだよね、『おまえ時々オヤジ入ってるよ』って。 宮田にも言われちゃったしね、『おまえはいやらしい』って」



 まあ、田村の言う意味と宮田に言われた意味は天と地ほどに違うんだけれど。でも、こんな風に口に出したら、宮田に言われたことも、すんなり牧野サンに言えちゃうような気がした。自分のこと、卑下してるつもりじゃないけどさ、何の得にもならないようなプライド捨ててバカになった方が、楽になれることもあるんだって、今わかったような気がした。


「今日、本当は練習があったんだ。だけど、俺日直だっただろ? だから、少し遅れたんだけどさ・・・その間に、いろいろあったみたいなんだよね、宮田に」


 俺も田村からの又聞きだから事情をよく飲み込めてはいないんだけど。そしてその田村も人から聞いたというから、情報は錯綜中。どこまでが事実なんだか、掴みようもない。音楽室に言った時に、宮田の姿を見た奴らがこそこそ話を始めた―――まあ、前にも言ったけど、宮田には敵も多かったし。宮田の鼻をあかしてやりたいと思う奴らは、たくさんいるわけよ―――そうだ。もちろん、ネタはオーディションのことしかないよな。あのオーディションは、審査員はセンセイ方だけれど、一応見学は自由になってたから。暇な学生たちが、結構いたっけ。こそこそ話だけでも腹が立っただろう、あの宮田だから。そこへ運悪く音楽の先生が登場しちゃったらしくて。さらに運悪く、宮田がいることに気付かなかったらしくて。言っちゃったんだよね。『宮田くんが歌うより、草野くんが歌ったほうがあのバンドは盛り上がる』みたいなこと。

 そりゃ、俺にとっちゃ嬉しい一言よ?だって、自分が誉められてるんだもん。しかも、あの宮田よりも『いい』って。気にしてないとはいえ、やっぱり宮田は自分よりもランクが上の人間だとは思ってるから。その宮田に勝てたことで、俺が優越感感じちゃってもおかしくないでしょ。でも、宮田にしてみれば逆なんだよね。俺のことなんか、自分よりもかなりランクが下の人間だと思ってるから。オーディションで耐えがたい屈辱を味わされて、ここでこんな話を聞かされて。宮田のプライドががたがたに崩されたの、現場を見ていない俺でもすぐに想像できるよ。


「で、俺が顔見せた瞬間、『おまえとなんか二度と音楽やらねぇ』って。その後すごかったよ。もう、俺のこと人間じゃないみたいに言ってさ」

『俺のことがそんなに邪魔か?』とか―――別に、そんなことは思っていない―――『俺に嫌がらせしようと思って、わざと歌っただろ?』とか―――嫌がらせするんなら、全然違うデモテープ渡すとか、もっと悪質なことするよ、俺なら―――『レベルの低い人間がしでかすことは、俺みたいな高尚な人間には理解できない』とか―――おまえ、自分のこと何様だと思ってるんだ?―――その他もろもろ。もう、聞いてるのが嫌になるくらいひどい言葉を羅列して。


「俺だって反省してたのにさ。ずっと気にかけてたのに。あんなにひどいこと言われるとは思わなかった。 結構ショック受けて落ち込んでる俺に、『おまえさえいなければ、俺はもっと上手く歌えたし、 田村だって崎山先生だって、もっとのびのび演奏できるのに』なんて言うの。 もう、俺って人間を完全否定?『いなくなっちゃえ!』とまで言われちゃってさ。流石に・・・へこんだ」


 あーあ・・・言っちゃった。口に出した瞬間体中の力が抜けて、もう座ってるのもえらくて。その場へごろりと寝転がった。ひざを抱えて夕焼けを見つめる、牧野サンの横顔が見える。この角度から見る彼女の顔、一番好きかもしれないな・・・なんて、全然関係のないことをぼんやりと思った。


「・・・草野くんは、どうしたいの?」

「・・・え?」

「宮田くんが草野くんに言った言葉は、きっと怒りにまかせたでまかせだよ。 負け犬の遠吠え・・・っての?気にしてくよくよしてても仕方ないじゃん」

「・・・どっちかってと、俺のほうが負け犬だと思うんですけど・・・」

 牧野サン、わざと間違えて使ってる?って突っ込んだら、わかってるよ!って、肩を軽く叩かれた。ちょっと膨らませた頬が、幼くて可愛い。


「音楽の先生は、草野君を誉めてくれたんでしょ? 宮田くんよりも、草野くんを『良い』って言ってくれたんでしょ?」

「・・・俺が直接聞いたわけじゃないから、わかんないけど・・・」


 うじうじと男らしくない俺。牧野サンは、『負け犬は宮田なの!おまえじゃない!』と半ば強引に決め付けちゃって。既に呼び捨てにしてるあたりから、彼女の強さを伺える。


「だから、もう負け犬の言葉は忘れなよ。今大切なのは、草野くんがどうしたいかでしょ? 本番のステージは宮田くんに歌わせたいの?それとも、自分で歌いたいの?」

「・・・・・」


 言葉に、詰まった。今まで俺が悩んでたことは、『忘れなさい』の一言で完結。それでもって、これからのことを今、決めろと言う。


「・・・わかんない」


 本当は、わからないというよりも、自分のやりたい方向に意思を決断させることが怖い。簡単にいうと、迷ってるんだ。俺はどうすればいいのか。そうしたら、目を吊り上げてた牧野サンの表情が、ふと緩んだ。


「・・・だよね。わかんないよね・・・」


 でもね・・・と、言葉を続ける。その表情は・・・始業式の日、あの桜舞う中でみた表情だ。何かを諦めたような、消えてしまいそうなほど儚いそれだ。


「あたしもね・・・悩んで悩んで、行動に出すことを躊躇ったこと、たくさんある。 そんなときに、ある人に言われたの。『悩んで行動しないのは、何もしないのと一緒だ』って。 あ、そう言った奴はすごくバカだったから、こんな気の利いた言い方はしなかったんだけどね」


 でも、その言葉にすごく救われたよ・・・と言う牧野サンの声は、とても優しかった。何故だかわからないけど、その言葉はすっと染み込んできて・・・霞がかった視界が急に開ける、あの感じ?今まで悩んでた、どろどろした感情が一気に浄化されたような気がした。それにしても・・・


「そんなたいそうな助言してくれた人に向かって、『すごいバカ』って言える牧野サンって、かっこいいよね・・・ でも、ありがとう。その言葉聞いて、急に楽になった」


 ホントにバカなのか、それともすごく親しい人なのか・・・。俺の言葉に、牧野サンは腕時計を見ながら笑った。


「もうこんな時間。そろそろ帰る?」

「・・・うん」


 少し名残惜しい気持ち。彼女と別れ難い・・・って気持ちと、俺の気持ちを一気に晴らした助言を与えた人物について、質問してみたい気持ちが交じり合って・・・なんだか微妙だ。立ち上がって、土手を上って、川原の道を二人並んでゆっくり歩く。一歩、また一歩。進むたびに、今まで悩んでいた宮田への感情が、少しずつ薄れていった。明日、ガッコ言ったら宮田に言おう。『俺が歌う』って。宮田を傷つけたのは俺だけど、故意にやったわけじゃない。謝って、許してもらえないんだったら仕方ないよな。そうだよ。あのバンドにとって、宮田は『絶対』の人間じゃない。音楽のセンセイが言ってくださったように、俺が歌ってどんどん盛り上げちゃいましょう。


「じゃあ、あたしこっちだから」


 分かれ道。牧野サンは俺の進む方向と逆を指差した。


「送ろうか?もう遅いし・・・」

「大丈夫。あたしこう見えても強いから」


 強そうに見えるけど?と言ったら、笑いながら俺の方を叩いた。・・・彼女は人を叩くのが好きなのだろうか。

いや、牧野サンに触れてもらえるのは嬉しいんだけど・・・って、こんなとこでスイッチ押すか?俺。


「じゃあ、また明日学校でね」



 バイバイ・・・と手を振って進む彼女の後ろ姿を、俺はずっと見ていた。感謝の気持ちと、名残惜しい気持ちと、なんとも形容しがたい、心に湧いた小さな気持ちをぎゅっとかみ締めながら。闇に溶けて、それが見えなくなってしまっても。


















・・・余談だが、家に帰った俺をご丁寧に出迎えてくれたのは、鬼の形相をした母親だった。


「マリの散歩だけで、何時間ほっつき歩いてるつもりなのっ?! わざわざ遠くまで連れてってくれてると思ったら、マリだけ先に帰ってきちゃって・・・一体何してたの!」


・・・大目玉。ちくしょう・・・怒られるってわかってたら、走り出したマリを意地でも止めたのに。リビングのソファに正座して、うつむいてる俺に対して、唾を飛ばしながら怒る母親。受験生としての気合が感じられないとか、マリに対して無責任すぎるとか、もうあとからあとから湧いて出る小言。それを止めてくれたのは、想像もしなかった人物で。


「母さん、兄ちゃんだって人に言えないことがたくさんあるんだよ。 もう高校3年生の男なんだよ?エロ本だって隠れて読んでるような年頃だよ? いいじゃん、マリはちゃんと俺が連れて帰ってきたんだから」


 リビングに置かれた自分のベッドで、腹見せて寝てるマリの頭をなでながら、同じ立場―――高校受験生―――の弟が口を挟んだ。そして、俺の顔を見て、意味深ににやりと微笑んだ―――というよりも、いやらしく笑った。

 『女の子と2人で川原でいちゃいちゃしてた』ということを母親に秘密にしてもらうため―――いちゃいちゃなんてしていなかったのだが―――の賄賂を奴に請求されるのは、夕食後、部屋でロックを聞いている時だったりするのは、今の俺には全く想像できなかった。





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