「・・・司さん?」

 部屋の中から、遠慮がちなか細い声が聞こえた。
 振り返ると、厚手の遮光カーテンの陰から顔を覗かせる沙希・・・婚約者が目に入る。
 
 「どうかしました?こんな寒い日に、そんな格好で外へ出て・・・」

 心配そうな表情で、厚手のガウンを持って俺の横へと並ぶ。
 肩にかけようとしたその手を制し、いらない・・・と首を振ると、沙希の顔に不安が広がった。

 「長風呂しすぎて、のぼせたから・・・」





       





 彼女から目を反らし、再び空へと向ける。
 細い細い月の光は、あまりにも儚すぎて、俺には届かない。
 それでもこうして見つめていれば、この想いが少しでもあいつに届くような気がした。

 「・・・そろそろお部屋に戻りませんか?風邪ひいてしまいますよ」

 「・・・ああ」

 そう答えるものの、目は空から離せない。
 不思議そうに、隣に立つ彼女も空に視線を走らせた。

 「・・・何か、見えますの?」

 「・・・かぐや姫」

 一瞬目を丸くして驚き、そのあと、口に手を添えて控えめに笑った。
 司さん、冗談がお好きですね・・・
 そんなつもりはなかったけれど、大抵の人間はそう捕らえるだろう。
 俺も、笑って見せる。
 ・・・笑顔を作るのは好きじゃない。
 けれど、慣れてしまった。
 感情のない、それでいて人を安心させる笑顔を作る事に・・・

 「・・・明日も早いから、もう寝る」
 
 身体も冷え切ってしまい、そろそろ限界だ。
 これ以上ここにいたら、本当に風邪を引いてしまう。
 部屋に足を一歩踏み入れた瞬間、心地よい暖かさが身に染みた。

 沙希が部屋に入ると、大きくて頑丈な窓を閉める。
 外気が遮断され、彼女の光は、もう見えない。

 「司さん、今日は・・・」

 「俺はゲストルームで寝るから、寝室は自由に使って」

 彼女の言葉を遮り、部屋を出た。





 『今日は一緒に寝てもいいですか?』

 彼女が言いたかった言葉くらい、容易に想像できる。
 この屋敷に来てから毎日、その言葉を俺に伝えようと必死なのだから。

 でも、そんなこと出来るはずがない。
 他の女を・・・抱けるはずがない。

 ゲストルームの窓を空け、再び、空を見上げた。
 月は雲に隠れ、その姿は見えない。

 「・・・お前、俺の事ちゃんと見てる?」

 胸元で淋しく揺れるリングをぎゅっと握る。
 ひんやりとした小さなそれは、手の熱ですぐに暖かくなったが、俺の心は冷たいままだ。
 
 

 沙希は、俺の『笑顔』が好きだと言った。
 瞳が優しいからだ・・・と。
 優しい?そんな事あるはずがない。

 ただ、諦めてるだけだ
 自分の未来に、夢に、全てに
 色を失った瞳が、彼女をそう錯覚させているだけ



 「・・・なあ、俺の事覚えてるか?すこしは、俺の事考えてるか?」

 あの日、あいつが残していったリング。
 『いつか来る日のために』と、俺が贈ったもの。
 どうして残してったんだ?

 もう、二度と会わないってこと?
 それとも、これをお前に渡すチャンスを、もう一度だけくれるってこと・・・?

 「・・・俺も、月に連れてけよ。・・・迎えに・・・来いよ・・・」

 叶うはずのない独り言だとわかっている。
 それでも、呟かずにはいられなかった。
 
 

 窓を閉め、ベッドにもぐる。
 目を閉じると、脳裏に浮かぶあいつの姿。
 


    


 泣いたり
 笑ったり
 怒ったり・・・

 どんな表情も、かけがえのない宝物だ。

 強い意志のこもった大きな瞳
 好奇心旺盛な、キョロキョロとよく動く瞳
 少し低くて丸い鼻も、小さな口も

 小さな手も、すぐに赤くなる頬も
 ベッドの中での、妖艶な泣き顔も


 全てを思い出しながら、熱く膨張した自分自身に手を添えた。
 あいつの全てを感じながら、そっと目を閉じる。


        


 『つくし・・・』


 最後の時を迎える瞬間、俺はそう呟くだろう。
 月へ帰った『かぐや姫』の名前を・・・・・
 
















                          






ベランダに出て、月を見上げる。

 街灯も何もない真暗な闇。

 静寂の中に儚く揺らめく下限の月。

 かろうじて形を残す、薄い光。

 朔の日が来たら、ここから見える世界は、深い闇に染まる。