4.
やっぱりあたしは、あれこれ世話を焼かれるのが苦手だ。横抱きにされた体をようやく道明寺の部屋のべッドに下ろしてもらうと、思わず安堵の息が漏れた。大事にされてるのは良く分かるけど、もう少し放って置いても構わないのにとも思う。贅沢な悩みなのかもしれないけど・・・。内線で救急箱を頼み、「少し暑いな」と室温の調節をする。そんな道明寺が目の前に立った時、急に顔をしかめて、自分のTシャツを気にし始めた。どうしたんだろう?不思議に思った瞬間、それに手をかけ、突然脱ぎだした。
「な、何やってんのよ!」
叫んだところでどうにもならず、目の前の道明寺は・・・半裸だ。慌てて視線を逸らすも、露になった逞しい胸はどういう訳か目に焼きついて離れない。今座っているのがベッドの上というのも、妙に焦った。ここまで連れて来たのは治療以外にも意味があったのだろうか・・・・・・沸々と湧く不安と緊張。しかし、1人混乱するあたしが次に見たものは、真っ白のシャツを羽織った道明寺。
「あれ?Tシャツは?」
我ながら間抜けな声だった。
「汗掻いて気持ちわりぃから着替えた」
「へ?」
言葉の意味が理解できなくて、思わず聞き返す。汗掻いたから着替えた?という事は、今のは単なる勘違い?それに気づくと、「この場から逃げ出したくなるほど」恥ずかしくなった。救急箱を受け取った道明寺が、目の前に胡坐を掻く。たったそれだけでも顔が火照ってどうしようもない。少しずつ後退って距離を作ろうとはするけれど、こういう時の道明寺って、どうしてこうも勘が良いのだろう。直ぐに不自然な気配に気が付いて、
「なんで逃げんだよ」
ふと道明寺の顔が近づいて・・・唇が触れそうな至近距離で止まった。
「怪我してる女を無理やり襲う趣味は俺にはねぇよ」
「お、襲うって・・・べ、別にそんな事思って無いし」
「まっ、お前がそれ望んでんならそうしてやってもいいけどな」
言ってニヤリと笑ったその顔に、思わずカッとなる。
「そんなの望んでません!」
強く否定してもまだ笑っている。それが凄く悔しいのに、言い返せる余裕も無く、そっぽを向くだけで精一杯。
「おい、こっち向けよ。手当てしてやっから」
「いいよ、自分でやるから」
「いいからこっち向けって」
それでも振向かないあたしに、とうとう痺れを切らしたのか道明寺は言った。
「ほんとに押し倒すぞ」
そんな脅しは無視してやろう。そう思ったのに、チラっと視界に入った目つきは本気そのもので。あたしは直ぐに観念して、道明寺の方に向き直った。
「ったくめんどくせぇ女だな、お前は」
わざとらしく溜息を吐く道明寺に、あたしはむっと唇を尖らせる。
「めんどくさくて悪かったわね」
が、すかさず頬に押さえつけられたコットンに、「ヒッ!」と、情け無い声が洩れた。
「しみるか?」
「だ、だ、大丈夫」
一応強がってはみたけれど、あきらかに声は震えていた。痛いのは苦手だ。全然大丈夫なんかじゃない。
「っつーか、お前マジダサ過ぎ。いい大人が顔からこけるかよ」
呆れる道明寺に言葉も無い。自分でもほとほと呆れていた。幾らボールを手放せない状況だったとはいえ、冷静に考えてみれば自分の顔を犠牲にするまでも無かったのに。でも、あの時はどうしても花沢類にボールを渡したかった。それを言ったら、「必死過ぎ」って引かれたけど・・・。
消毒が終わり、ペタッと絆創膏を貼られた後、
「ん?ここも擦り剥けてんのか?」
親指で顎を撫でられた。と同時にグっと迫った端正な顔。まるで胸の奥まで覗き込まれてるような気がして、頬が不自然に強張った。まださっきの恥ずかしさが消えて無いのに、どうしよう、この距離・・・。でも道明寺は全く気にしてる様子はなく、
「あ、やっぱ擦り剥けてるわ」
見ているのは顎の傷だけ。
「まぁこっちは大した事ねぇけど、一応消毒はしとくか」
「う、うん」
返事するだけでもどもってしまうあたしは、
「よし、完了」
言われた時には心底ホッとした。
「あ、ありがとう」
「それにしても」
「え?」
「酷いな、その顔」
繁々と見つめられて、急に不安になる。
「そんなに酷い?」
「あぁ、マジひでぇ」
きっぱり言い切られ、ちょっと傷ついた。そんなに酷いんだろうか、あたしの顔。気になってベッドを下り、部屋の左壁にかけられた大きな姿見を覗き込む。映った自分の顔を見て『マジひでぇ』という言葉の意味を、ようやく理解出来た。右頬も顎も、殆ど絆創膏で覆われて、まるで誰かと殴り合ったような有様。直ぐに頭に浮かんだのは、明日会う先生達の顔。エレガントな仕草は常日頃から心がけなさいって、あれだけ煩く教えられたのに。改めて自分の姿を確認し、やっぱり酷いなと項垂れた。どうしよう、この顔・・・。
「ったく、嫁入り前の体なんだから気ぃつけろよ」
不意に耳元に触れた優しい声。あたしの体は何時の間にか、道明寺の胸にすっぽりとおさまっていた。くるりと身体の向きを変えられる。、今にも唇を奪われそうな気がした。でもあたしはやっぱり甘い空気に弱いし慣れない。さっきの自分の顔を思い出しただけで、どうしても耐えられなくなってしまう。道明寺はあたしの好きな人。その好きな人に今は平気で見せられるような顔じゃない。こんな自分にも、一応ハジライというものがあるらしい。
「あっ!見て!きれーい!」
あまりに唐突な逃げ方に、「あ、おい」と焦る道明寺。それでも構わず一気にバルコニーまで駆けていく。手すりから少し身を乗り出して見渡した広い空。何時の間に染まったのだろう。昼間の熱気を和らげる、落ち着いた橙色。かつて青かった空は跡形もなく消え、夕暮れの色だけが見事に一面を支配していた。
「きれーい」
今度はその場凌ぎじゃなく心から出た言葉。こうして夕空を気にして見たのは、凄く久々な気がする。
何時の間に隣には道明寺が並んでいた。それに気付いてまた逃げたくなった。でもまさか、この手すりまで乗り越えて行く訳にはいかず。すっかり逃げ場を失ったあたしは、今度はこの場を上手く切り抜ける言葉を探した。
「ほら、道明寺も見てよ。綺麗だよねぇこの空の色。昼間の真っ青な色も良かったけど、今の色も凄く好きかも」
幾ら必死に話し掛けたって、返答は無し。それでも沈黙は作らないようにと、何とか言葉を繋げる。
「あ、そういえばさ、あんた、なんで急に3on3なんてやろうと思ったの?珍しいよね。バスケは興味なさそうだったのに」
これは全くの思いつきで飛び出た質問。でも今日ずっと聞きたかった質問でもある。道明寺はあたしを見て、少し考えるふりをした。
「ねぇ、どうして?」
尚も問い詰め、顔を覗き込んだあたしは、既に絆創膏だらけの自分の顔を忘れている。ついさっきまでは気にしていたくせに、あたしのハジライなんて所詮こんなもんだ。
「お前が、走りてぇとか、訳分かんねぇ事言い出すからだろ?」
「へ?」
やっと聞けたその答えは、咄嗟には理解出来ないものだった。でも直ぐに「あっ」と思い出す。1週間程前の公園でのやり取り・・・確かにあの日、あたしは『走りたい』と呟いていた。あの言葉覚えてたんだ・・・。でも分からない事はまだある。
「どうしてそれが3on3に繋がったの?」
「お前あん時、3on3やりたそうにしてたじゃねぇか」
「え?やりたそうにしてた?」
「あぁ」
「あたしが?」
「あぁ!」
徐々に苛立った様子を見せるのは、あたしの聞き方がくどいせいだろうか。それでも聞かずにはいられない。
「あたし、そんなに3on3やりたそうにしてたっけ?」
そしたら道明寺は、益々語気を荒げた。
「3on3してる奴らの事、お前真剣に見てたじゃねぇかよ!」
「・・・・・・」
言われてみれば、あの子達の事を興味を持って見ていたのは確かだった。でもそれは、3on3をしたかったからじゃない。ただちょっと、あの無邪気さが羨ましかっただけ。
「ごめん。道明寺がそんなに気にしてくれてるなんて思ってなかった」
「ったく、もっとお前がはっきり言やぁ俺だって、類なんかにいちいち聞かずに直ぐ動いてやれたのによ」
「え?なんで花沢類の名前がここに出てくる訳?」
公園での一件があった後、『走りたい』という言葉がどうにも引っ掛かっていた道明寺は、その時たまたま会った花沢類に相談したら、花沢類はいつものように笑いながら、もしかして『走りたい』っていうのは、外で思いっ切り動き回ってストレス発散したいって意味じゃないか。牧野は近頃、何処行っても控えめに動いてるみたいだから。と、余裕綽々に答えたそうだ。さすが花沢類。しっかり的を得ている。その言葉に納得した道明寺は、直ぐに業者に電話をし、前代未聞の急ピッチで3on3用のコートを造らせたという。まさかあのコートが、あたしの一言から造られたものだったなんて・・・予想しなかった事実にちょっと頭痛を覚えた。花沢類もいつもとどこか違うな・・・と思っていたけど、こういう事だったのね。
「ねぇ道明寺。今度はさ、何か始める時には事前に相談して欲しいんだけど」
「だったら俺に分かり易く説明しろよ。お前の言う事はいっつもなぞなぞみてぇで腹立つんだよ」
「べ、別にあれはあんたに言った訳じゃなくてただの独り言だし!それに、あたしの愚痴なんて聞いたってつまんないでしょ!?」
喧嘩腰の物言いをされると、どうしても釣られてしまう。言い返してからいけないと思ってももう遅い。でもあの時、あたしは2人だけの貴重な時間をつまんない愚痴で潰したくは無いと思っていた。だから何も言わなかったのに、今更腹立つと言われても・・・。
道明寺は大きな溜息を吐きながら、クルリと向きを変え手すりに背を預けた。
「俺は、お前に余計な気を遣われる方がよっぽどつまんねぇ」
「え?」
「お前の言いたい事が俺には分かんなかったのに、類には分かったっつーのがマジつまんねぇ。ったく、何で俺がいっつも類に頼んなきゃなんねぇんだよ」
呟いたその顔は、何時に無くしょんぼり顔。そんな顔を見たら、流石にあたしも反省してしまう。本当は花沢類には頼らず全部自力で何とかしたかったのかもしない。『走りたい』という他愛ない独り言を、必死で汲み取ろうとしてくれていたのかもしれない。それなのに、その優しい気持ちに全く気付いてあげられなかった。何て無神経だったのだろう。
「なぁお前、今辛いのか?」
急に向けられた道明寺の瞳に、不安げな色が宿った。
「俺らの世界って疲れるか?」
そんな事聞かれても、どう答えればいいのかな。出来る事なら疲れないと言ってあげたいけど、それではやっぱり嘘になる。でもこの世界を選んだのはあたし自身で、後悔だって一度もしていない。それを早く伝えなきゃと焦っているのに、どうしても上手く言葉が出て来ない。この沈黙が、道明寺を益々不安にさせたのだろうか。そんなことを考えていたら、突然唇を封じられた。突然のことで息ができなくなる。苛立ちの中に時折見せる弱さや焦り。そんな複雑な感情を正直にぶつけてくる道明寺に、あたしの胸は痛んだ。
「わりぃ。お前に今辛いって言われても、やっぱ俺はお前を離せねぇ」
強く抱き締められ、耳元で囁くその声は、まるで別人のよう。自信に満ち溢れた本来の姿が、今にも消えそうで例え様の無い罪悪感を感じる。
「だ、誰も離してって言って無いじゃん。離して欲しいならとっくにあんたから逃げ出してるわよ」
この程度の言葉で、不安を取り除いてあげることができるのだろうか。まだまだ足りない気がするのに、言葉がやっぱり続かない。不意に体が離れ、注がれる強い視線。そこに映るのはあたし1人。他には何もない。ふと思い立つ。言葉に頼れないなら、代わりに出来る事は・・・。
背伸びしてシャツを引っ張って。何処かぎこちない動作で一瞬だけ重ねた唇。道明寺は少し驚いていた。引き寄せられる、温かい腕のぬくもりには、悔しいけれど、適わない。道明寺からの思いは、どうしてこんなに胸に響くのだろう。何も言わなくてもストレートに届く愛情。だからあたしもそうありたいと思うのに・・・。
「ごめんね。あたし、何時も不安にさせてるね」
「そう思うんだったらもう余計な気ぃ遣うんじゃねぇよ」
責める言葉とは裏腹に、あたしの髪を撫でてくれる手は凄く優しい。怪我した右頬に指が思わず当たった時も、
「あ、わりぃ。大丈夫か?」
くすぐったくなるような甘い声。身にしみて伝わる優しさに、あたしはどんどん道明寺を好きになる。
「道明寺、今日はありがと。3on3、すっごく楽しかった」
「そうか?」
「うん。久しぶりに体動かせてすっきりしたって感じ」
やっと言えたお礼の言葉。道明寺の表情が穏やかになった。それとふと重なった、試合中に見た表情。ずっと不機嫌だった道明寺が、急に穏やかな顔をしたあの時。あの時はその表情の意味が分からなかったけど、今になれば分かる。きっと道明寺は待っていてくれたのかもしれない。あたしが心から楽しんでる姿を、ずっと待っていてくれたのかも。
「あのコート、勿体無いからまた使おうね」
「ん?あぁ、そうだな」
「試合も中途半端で終わっちゃったし、今度は最後までしたいよね」
またあんな風に身体を思い切り動かす機会が増えたと思うと、楽しみが一つ増えた気がして凄く嬉しい。ところが、そんなあたしとは対照的に、道明寺は顔をしかめた。
「今度はあいつらは呼ばねぇ」
「は?」
「類だけはぜってぇ呼ばねえ。ったく、今日だけはあいつに逆らわねぇって我慢してしたけど、今考えるとすっげぇムカつく」
「花沢類が、どうかしたの?」
そう尋ねただけなのに、「お前もお前だ!」といきなり怒鳴り返されて唖然とした。
「あんな目でずっと類を見てんじゃねぇ!」
「は?あんな目って、どんな目よ」
「あんな目はあんな目だ!」
「はぁー?」
「しかもハイタッチとか、気色わりぃんだよ」
「ハイタッチ?」
その単語が出て、ようやく言いたい事が見えた。花沢類が点を取る度に交わしていたハイタッチ。そして、思わず見惚れたあたしの目。それが気に入らなかったと、そう言いたい訳だ。まったくなんて器の小さい男だろう・・・。でも確かに、あたしもちょっと道明寺を無視し過ぎたのかなと思う。そもそも3on3は、あたしを思って始めた事。なのに花沢類ばかりを褒めていたんじゃ、不貞腐れても仕方が無いよね。普段のあたしなら絶対に言わないけど、でも、今日だけは特別だ。
「あんたも、カッコ良かったよ」
「あ?」
「試合中は敵だったから言えなかったけど、すっごくカッコ良かった」
やっぱり、慣れない言葉を言うのはこれ以上なく勇気と気力を使う。きっと道明寺だって信じられないのだろう。あたしの事をジッと見つめ、呆然と立ち尽くしている。でも気づく。頬が徐々に赤く染まっているのを。お願いだからそんな顔しないで欲しい。その赤ら顔はあたしにまで感染るんだから。しばらく続く気まずい沈黙。その沈黙を破ったのは道明寺の方だった。
「まっ、あいつらも今度呼んでやっか」
「は?何それ。今呼ばないって言ったばっかりじゃん」
「るせぇ。2人じゃ3on3になんねぇだろうが」
なんて単純なバカ男。こんなに早く撤回するなら始めから言わなきゃいいのに。でも、こういう勝手なところも、結構好きだ。前は欠点にしか見えなかった部分が愛嬌に見えて来るなんて、恋ってやつはやっぱり不思議なものだ。
「っつーか」
「ん?」
「これからはなんかすっきりしねぇ事があったら、何時でも俺に言えよ。俺に言えば、何だって全部解決してやっから」
「道明寺・・・」
「まっ、今回は類達に助けて貰ったっつーのがちょっとカッコ悪かったけどな」

照れ臭そうにはにかんで、後頭部を手で摩っている姿は何処かあどけない。たまに見せる少年のような表情は、何時もあたしの心を和ませる。気がつけば、道明寺の白いシャツが、空を映したように橙色に染まっていた。ただの錯覚だとは分かっていても、その色合いに感動を覚える。まるで今の道明寺の心の中が、そのまま透けたような温かな色・・・。抱き締められ、広い胸から伝わるとても大きな安心感。あたしは少しだけ泣いてしまった。もしかして気づかれたのかな・・・。何度も頭を撫でてくれるから。
あたしは幸せだった。『走りたい』とたった一言呟いただけで、こんなに心配してくれる人が居て。1人ではどうする事も出来なかった悩みを、いとも簡単に掻き消してくれた人・・・。
あれからもう、5年の月日が経つ。
バルコニーの向こうには、今日もあの日に似た夕空が広がっていた。何度この空にあの日の幸せな時間を思い出しただろう。大切な思い出が、ずっと色褪せずそこに浮かんでるようで何時しかこの時間が好きになっていた。
「だんな様がお帰りになられたようです」
温かな橙色に包まれて、ぼんやりと時を過ごしていたその後ろから、急に聞こえた使用人さんの声。
「あれ?もう?」
あたしは驚き、思わず部屋の時計で時刻を確認した。17時40分。
「やっぱり早い・・・」
今日は帰りが遅くなるって言っていたのに。
「今日はお二人の結婚記念日だからじゃないでしょうか」
使用人さんにからかわれて、あたしは「やだ。違うわよ!」とつい大きな声を出した。確かに今日はあたし達の結婚記念日だけど、でも、仕事が立て込んでるとずっと言ってたのだからそんな筈は無い。もしかして体調が悪くなったとか?あたしは心配になりながら、足早にエントランス向かった。でもその心配は、無用だったようだ。あいつは確かにそこに立っていた。それと同時に目に飛び込んで来る、真っ赤な薔薇の花束。突然の出来事に、胸がドキドキと高鳴る。
「し、仕事は?」
「あ?そんなものやってられるかっ!って秘書に投げつけてきた」
まるで「どうだ」と言わんばかりの勝ち誇った表情。相変わらずこういう時は、憎らしい程得意げだ。そしてあたしも、「バカじゃないの?」なんて、強がりの言葉を言っているのは相変わらず。本当は、今日だけは早く帰ってきて欲しいと思っていたくせに、それは一切口にはしない。でもその本音はもうとっくに見透かされていたのかも。だからこうして、無理して早く帰って来てくれたのだろうから。後ろに夕空を背負って。あたしに優しい眼差しを向けて。あたしの愛する人は、あの日の姿と全然変わらなかった。何時だってあたしの事を考えて、何時だってあたしの為に何かをしてくれる。
「ありがとう」
ずっと変わらないその人に、心から感謝をした時、夕空が、そして大好きな笑顔が、一緒に混ざり合って滲んだ。
「お前、段々涙脆くなってきてねぇか?」
痛いところをつかれて、あたしは咄嗟に口走る。
「夕方の時間はこうなるの!」
我ながら、訳の分からない言い訳だ。
「は?意味分かんねぇ」
「バカには分かんないわよ」
「何だと!?」
喧嘩しながらも互いの手は繋いだまま。部屋に入ると、夕日が一瞬にして二人の顔を染めっていった。ここで今日も始まる、二人きりの時間。貰ったばかりの薔薇をテーブルに飾り、「綺麗だね」と微笑み合ったら軽くキス。そしてしばらく眺める夕空。新たに胸に刻まれる大切な思い出に、あたしはもっと、この時間が好きになる。
おわり
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